香蘭荘再訪
高速バスで松本に着き、松本市図書館を目指す。風の民俗、ぼんぼん、青山様、三才山関連の資料、特攻隊や疎開児童の資料をコピーする。きむらけんという人の本が一階の地元の戦史コーナーに並んでいて、浅間温泉に特攻隊が滞在していたことを知る。娘たちは、途中で図書館前のブランコのある公園に遊びに行った。小さいころからそうだったが、中二の長女は今でもブランコに目がない。現実をスキップして非現実に投げ出されるようなあの感じが多分、思春期の彼女にとって、幼い日とまた別な意味を持って貴重なものになっているのかもしれない。その後バス停まで少し歩き、バスを待って浅間へ向かった。iphoneのナビがあるから、初めての道も、バス停も躊躇なく進める。なかなかすごいことだ。
浅間温泉の香蘭荘には、20年前くらいからよくお世話になった。そのころ、松本日中友好協会の会長だった穂刈甲子男さん(株式会社林友・会長)が、川島芳子やその養父浪速を顕彰する会を3月25日、芳子の命日あたりに開いていたので、3月の松本に毎年通っていた時期が5,6年あった。私は13の時に「驚き桃の木20世紀」という歴史番組でラストエンペラーや李香蘭と共に取り上げられていた川島芳子に興味を持った。清朝愛新覚羅家の皇女に生まれながら、何故日本で育ち、男装をしているのか、本当に銃殺されたのか、謎の多いその人に引き付けられるように調べ続けた。そのままラジオで中国語を学び、たまたま高校で中国語を選択することもでき、「とにかく大学生になったら国会図書館と芳子が育った松本に行きたい」と思い続けていた高校生だった。当時東大の学生でやはり芳子のことを調べていた阿部由美子さん(現在は満州族や東北アジアの研究者)と二人で松本に行くことも多く、そうするといつも香蘭荘のご主人小岩井孝さんのお世話になり、泊まらせていただいていた。孝さんは、当時日中友好協会の副会長で、穂刈さんと共に芳子の会を共に開催し、芳子の甥や姪を招聘したこともあった。当時は孝さんの娘さんの忍さんが宿を切り盛りしていて、学生だった私たちはただで泊めて頂くこともあり、夕飯の支度や後片付けを台所で手伝うこともあった。最後に尋ねたのは2009年ころだろうか。2008年2月に長女が生まれ、3月に『評伝 川島芳子』(文春新書)が発売になった。翌年1歳くらいの長女を連れて、林友ホールで講演をさせていただき、その後香蘭荘にお世話になったときの写真が残っている。長女はもう13才。あれから10年以上経ったのだ。忍さんとは、孝さんが亡くなった3年ほど前に電話で話をしていた。ひとしきり孝さんの話をした後、「娘さんも大きくなったでしょう」と電話口で言われたのを覚えている。きっと、赤ん坊の時以来の再会で、びっくりするだろう。香蘭荘までの坂道を上る。これまでは、川島芳子関連のイベントが行われる会場から、たいてい小岩井さんの車でドアツードアだったから、坂を歩いて上ったこともそういえばなかったのだと気づく。1月の澄んだ空気の中、側溝から湯気が立ち上っている。香蘭荘は変わらずそこに昭和の旅館然としてあった。「○○様」と宿泊客の名前を書き込む欄は何も書かれていなくて、すでにあまり活用しなくなって久しいのかもしれなかった。こんにちは、と宿に入るとアルバイトの女の子のような子が「お待ちしていました」と迎えてくれた。私は忍さんが出てこないので、台所で何か作っているのかな、と玄関からすぐ覗ける台所の方を気にしていた。お部屋はお二階です、と言われた時に、「あの、今日はおかみさんは」と尋ねると、「母は2020年に亡くなりまして」と言う。たしか「ユアリテ」の話をもらったころ、栞日の菊地さんも「たびたびインタビューをさせていただいて、そのたびにお世話になっています」と返事があったので、まさか、という気持ちだった。
「急なことだったんですが、祖父が亡くなった翌年続けて亡くなりまして」と言う。忍さんが亡くなっていたことにも驚いたが、長女がその後を継いでいたことにもびっくりした。20年近く前、小学生だった上の女の子ともう少し小さかった下の女の子に「女の子を描いて」とせがまれて、一緒にお絵かきをしたときのことが蘇った。
お夕飯は「まだまだなれなくて試行錯誤ですが」という若女将の、それでも品よく盛り付けられたものでどれも美味しかった。ブリがあるのは、このあたりのお正月のメインになるからだろう。食堂になっている一階の和室には、中国の画家が孝さんに送ったものだろうか、水墨画が二幅かかっていた。仙人のような達磨を描いたものは、「炳申」というサインと「小岩井孝先生」と書かれている。シャクヤクを描いたもう一方には「蘆陽」だろうか、サインがある。いずれも小岩井さんが松本日中友好協会で交流のあった中国人画家によるものだろう。しーんとした和室の中で、小岩井さんの声を思い出す。それから忍さんの声も思い出す。それからまた静けさに戻ってくる。時が流れる、時代が去り行くというのは、こういうことなのだ。沈黙の厚みの中に無音の声を聴きながら思った。
部屋に戻ると、机の上に館内の案内図があった。以前もあったのだろうが、あまり気にも留めないでいた。よく見ると案内図の下に堀田善衛の詩が書かれている。
人は歩いて 生きて行く
歩きつづけて
一日のおわりには
どこかで とにかく
寝ることになる
その宿りをば
ととのえる
やどやの仕事は
さまざまの人生を
まるのままにて
のみこむ
されば われらは
嘆かず 怒らず
人々の休息の
ためにこそ
微笑をもって
人生に対す。
堀田善衛
香蘭荘へ
忍さんが亡くなっていたこと、そしてその長女が若女将になっていたこと、思いがけないことを二つ抱えて読んだこの詩は、やけに胸に沁みた。堀田が宿屋の気持ちを思って詠んだ詩なのだろう。今の浅間温泉全体も、香蘭荘自体も、お客の活気という意味では寂しさがある。それでも若い娘さんが、気丈にも継いだ。「微笑をもって 人生に対す」。香蘭荘にこの詩の精神が流れていたのかな、という気もする。同じ表現者として、羨ましくも思う。堀田善衛は、文学に詳しい人を除いて一般にはそれほど知られた作家ではないし、とりわけ若者で知っている人はわずかだろう。それでも、詩や歌や文学が時代を越えてこのように人に寄り添うことができるのだとしたら。表現者として一つそのような作品が残せたとしたら、それは間違いなく素晴らしいことだ。
孝さんの父玄一郎さんは、文学者だったというのは、ちらっと生前の孝さんの口から聞いたことがあった。改めて調べてみると小岩井源一、筆名高橋玄一郎(1904-1978)は、昭和22年本郷村村長となっている。堀田善衛よりは14歳年長にあたる。佐藤惣之助門下であり、文学者との交流があったが、当時文学者は左翼的と目を付けられることも多かった。1941年玄一郎は治安維持法違反で検挙され、9歳だった孝さんは「お父さんは旅行に行っている」と母親に聞かされている。その6年後に村長になってしまうのだから、1945年を挟んでの、世の中のどんでん返しを体現したような人生だったとも言える。孝さんは、軍国主義下の少年らしく、「一刻も早く兵器を作」るため、松本工業学校への進学を決めた(小岩井孝「思い出すままに」『遠い太鼓 第三集』H17 )。その後孝さんは卓球に頭角を現す。スケートも得意だったのだろうか、初めて名刺を頂いたとき、「長野県スケート連盟副会長」とあって驚いたことを覚えている。そのときは、長野だからスケートも盛んなのかな、という程度の連想しかしなかったが、今回浅間の歴史と向き合う中で、美鈴湖にスケートリンクがあったということも知り、改めて浅間に生きた人だったのだという思いを新たにした。1974年には、中国から卓球とスケートの選手団を松本に呼ぶことにも関わっている(「私の半生」『タウン情報』信濃毎日新聞松本専売所WEB 私の半生(matsusen.jp))。孝さんの名刺にあったいくつもの肩書の背景が、少しずつわかってくる。
香蘭荘に逗留しては長編を執筆をしたという堀田も美鈴湖について言及している。
せっかく温泉に来たのに、バスで市街地へ行くなんぞということのいやな人は美ヶ原か美鈴湖へ上っていけばよいう。私はスケートが大好きだから、浅間の冬はことのほかに気に入っている。美鈴湖のリンクは氷の手入れも丹念だし、氷質も硬すぎず軟らかすぎず、私のような半クロートにむいている。
(堀田善衛「浅間礼賛」『信濃路とわたし:信州への愛のエッセイ』)
何日か続いた執筆に疲れたらスケートで気晴らし、戻れば温泉。夜は主人の玄一郎氏と飲みながら語りあったであろうか。香蘭荘には堀田の手で「雨ふりてもの皆腐りゆく中に 高橋玄一郎はギターを弾く」と書かれた色紙も残っているという(『新・松本平文学漫歩』)。