YUARITE ART PROJECT 2022

初庚申

 正月の浅間の街を歩くと、「祝庚申」「初庚申」と書かれた赤い幟がいくつも立っていて目を引いた。加えてだるまを売る出店もいくつか並んでいる。育った杉並の神社の初詣ではあまりなじみがなかったが、年始のだるま市は東日本の文化のようで、調布の深大寺では江戸時代から300年以上続いているもののようだ。庚申さま、というのは途中山王信仰や青面金剛信仰と結びついて現在の庚申塚によく見る石像が残されているが、もとはかたちのない干支の信仰だ。庚申様は、東京の武蔵野地域の市部である我が家の徒歩5分のところにもあって、いつもいくつものコップに水が供えられている。先日通りかかるとおばあさんが一人熱心にお祈りをしていた。石碑が持ち去られないように、鍵がかけられている。あと10年もしたら途絶えてしまいそうな信仰にも思われるが、かろうじて、一人なのか二人なのかこの地域での信仰篤かりし頃を知るお年寄りの思いで繋がっていることを感じる。限界集落のようなところや、マンションだらけになってしまった街では難しいかもしれないが、そんなお年寄りの背中を見ながら信仰は意外と繋がっていくものかもしれない、とも思う。

 現代人が連想する干支は12だが、細かい区分では60存在する。午年もこの分類では5種類存在し、女性の性格が強くなりすぎるといわれて出産が嫌がられるのが丙午の年だ。60年に一度訪れる。同じ要領で、一年間に庚申の日は6回訪れる。中国の伝説にちなみ、この日に、人間の悪事を天帝に告げ口しに行く三尸の虫を見張るために、「庚申待」が行われた。これを3年18回続けた時に立てられたのが庚申塔と言われる。この夜通し宴をして起きている風習の起源は平安時代にも遡るという。人間の悪事を人間界にとどめておけるように、という理由がなんとも人間臭い。

 案内してくれた小澤秀俊さんが、だるまやおみくじをさっと買って下さり、「ここは真光寺から分けた庚申さま」と教えてくれる。上高地線の終点の一つ前、渕東駅が最寄りのお寺、松本市梓川にある真光寺は、中心地域の庚申信仰の中心と言われるという。『松本市史3』によれば、庚申の日には小豆を入れたご飯や揚げ物を供え、念仏と共に「マイタリマイタリソーワカ」「南無阿弥陀仏」を唱えてから、夜更けまで語り合い、「話は庚申の晩に」という言い方がされたという。松本市内でも場所によってそのご利益はさまざまで商売の神、蚕の神などされるところもあるが、浅間の庚申様は「無病息災」「五穀豊穣」の願いが寄せられる。広く葬式は庚申仲間が担当してきたという。

 三好さんにお願いした映像撮影のために、秋にもう一度庚申様を訪れたが、初庚申のときのちょうちんや達磨を売る屋台の灯りの祭り然としたにぎやかさがすっかり失われて、同じ場所とは思えないほどだった。夜の訪問だった年始には気づかなかった立て看板に「布教のほか昭和23年から平成元年まで、みたから保育園が開設された」と書かれている。『本郷村誌』には「昭和一九年六月原実雄によって上浅間に私立「みたから保育所」が誕生した」とあり、村で最初の保育所も併設されていたようだ。

 年始の賑わいが嘘のようなその場所は、庚申堂への曲がり角にたたずむ大きな柿の木だけが熟柿をたわわに明るく実らせていた。園児たちもきっと食べただろうその実を失敬すると、手でむけるほどのやわらかさで、もうとても甘かった。