YUARITE ART PROJECT 2022

浅間いまむかし 木村鈐一さん

 1月6日、湯坂をのぼったところにある「哲学と甘いもの」で本郷歴史研究会の会長の木村鈐一さんのお話を伺う。今年で96才になる古き浅間を知る貴重な証言者だ。木村さんは松明祭りのことをこう話し始めた。

 「町の中をね、火を焚いてみなで楽しむってのは浅間しかないの。例えば富士山の浅間神社、あるいは那智の方の滝、火祭りあるけどあれも山だよね。火たくのは。街の中ではないよ。一つ間違えば事故になるからね。そういう祭りは浅間だけ。松明、2トンくらいあるかもしれない。麦をかるでしょ。いまコンバインでやっちゃうけど、麦わら用意してね、毎回。みんな出て、松明の高さは3〜4メートル。下から火をつけて神社におさめるのね。一日二日じゃできないから大変ですよ。作るとしたら1か月くらい。最後は穂先を上にして下を束にしてそこに差し込んでいく。で、ウィンチで締めて縄まく。普通の縄をみつあみにしてる縄ね。この下のメインの縄はさらにみつあみで9本編み。一番下の所は蜘蛛の巣みたいにクロスさせてまあるくしてそこを全部針金でしばって。そうしないと擦り切れちゃうの。もう熱いから途中で消す感じだったね」

 当時の松明祭の写真をみながら、裸足で担いでるねと儀一さん。

 「昭和23年ごろだな。兵隊から帰ってきたから足はしっかりしてる。こっちがわにゴルフ場があって、御射山の方からね。小学校の子どもがみんなくっついてきましてね」

 お客さんもみんな煤だらけになっちゃってね、と楽しそうに話す儀一さん。秋宮への青年たちの神輿担ぎでは、途中の道にわざと栗が撒かれていたりする「お遊び」もあったという。

 木村さんの家には四代前の「中屋甚兵衛」の名の入った「御用」とかかれた看板が残っている。今は「哲学とあまいもの」の店内にかかっている看板だ。松本城主相手に商売をしていたのだろうといい、木村さんの両親の代も棺桶から日用品まで扱う雑貨商をしていたという。中屋は屋号だ。もとは松本城の南で鍛冶屋を営んでいたのが、明治のころ大火にあい、仲間が浅間にいた関係でこちらに移住したために、屋号のように呼ばれたという。

 「鍛冶屋の儀一って。やい鍛冶屋鍛冶屋って。それが嫌で嫌で困ったわけ。中屋って屋号があるのに。通称鍛冶屋」

 小澤さんの家も家業にちなみ「電気屋」だったというから面白い。

 「兵隊から帰ってきたから足はしっかりしてる」という言葉が印象に残った。木村さんは戦時中はどんな体験をしていたのだろう。

 「そんなことは話さないほうがいいくらいだ。兵隊の話はやめだ。私のは20前の話だからね、一年くらい徴兵検査早まったんだね。普通は19才から行っていたが、私は17から志願していったんだ」

 とだけ答えてくださった。今ここで聴くことはできない複雑な思いが木村さんの中にあるのかもしれない、と思った。無理にこじ開けることはできない記憶の扉。

 「あのころは今頃は竹スキーを作ってね。石を使って先の方を少し曲げてね」

 桜ケ丘に近い「ホタルの里」のあたりに勾配があり北側斜面に雪が残っていたという。スキーやそりを竹や木で作っては遊んでいたという当時の子供たち。そりもスキー板も最初から与えられる今の子たちには味わえない、創造する喜びもそこにあっただろうと思う。

 「蚕祭っていうのもあってね、大八車でね」

 そもそも、浅間温泉の隆盛に養蚕業は深くかかわっている。お湯の歴史は古いものの温泉街としての隆盛は蚕種製造が盛んになったことが直接の背景にあった。 遠くから種を買いに来る業者たちがいたため、旅館も増えていったと言われる。

 繭神様祭の祭日は五月一日。準備は4月半ばから始まる。


旅館と蚕種屋にお願いして、一軒当たり50銭位を寄付してもらい、その財源で、縁起物、紙、絵の具等を購入し、「蚕大当たり」「千客万来」の旗を作り、当日縁起物と共に配った。地区へも同様に配り、若干の祝儀をいただいた。(中略)大八車に花で飾り付けを致し、赤白の幕で舞台を飾り、子供はそれぞれ仮装をし、軍歌を歌って回った。

(飯島兼十「大正末期の子供の集い」『遠い太鼓 第二集』)


 当日は新聞紙はボール紙で鎧、兜を作って参加したというから端午の節句と習合していたようだ。飯島氏が「軍歌」と記憶しているのは、戦時中のことでさもありなんと思うが、小岩井氏の記憶ではそこで歌ったのは「白虎隊」だったという。


軍歌というものは志気を鼓舞して戦いに勝つために歌うものだと思うのだが、どういう訳か敗者の歌を大声で歌った。「あられのごとく乱れくる 敵の弾玉ひきうけて 命をちりと戦いし 三十七の勇少年 これぞ会津の落城に その名きこえし白虎隊」不思議なもので今でも歌える。

(小岩井孝「思い出すままに」『遠い太鼓 第三集』)


 「三十七の勇少年」という部分が村の子供たちの規模感に合っていたのか、端午の節句の尚武の感じもマッチしたということなのだろう。

 木村さんが消防団に入った昭和23年ごろ、浅間で腸チフスが流行したという。

 「水源地は、ホタルの里のちょっと上あたり、そこにトラブルで菌が入っちゃった。私ら貧乏人だったから水道はなくて、温泉があるからそれを煮炊きに使って、洗い物もそう。うんと深い井戸だったから、腸チフスにかからなかった。水道ひいていた家はみなかかって、小学校に収容されていっぱいになった」

 木村さんが持ってきてくれた写真の中に、水道管の工事をしているような街中の写真があった。

 「これは配湯管を変えたわけ。今みたいにビニールのパイプではなくて、かつては山を切り出して、松の木の丸太ですよ。だから昔は大工仕事。今の配管屋の仕事と違ってこういう仕事するのね。深く掘って埋めて。これは私が屋根から撮ったの」

 丸太をパイプ代わりにしてお湯を通していたとは想像もしなかった。今は50度以上のお湯も当時は、引いてきたお湯も冷めやすく37~8度だったという。『本郷村誌』には、「昭和一九年温泉湧出が減少し温度が下る事の不安から役場を中心として浅間温泉源泉のボーリングが始まった」とあるから、終戦をはさんでボーリングが進み、湯の温度も回復していったと思われる。

 「昔は湯花っていうのもひっかかったりしてね、地震のあとはお風呂に湯花流れてくるので汚れてました」

 「今、あえて汚いの出すのもありだと思うんですよね」と小澤さん。

 湯花は泉質が粒子状になったり糸状になったりして温泉に混じる自然由来ものだ。

 「人に寄っちゃ汚いって言うかもしれないけど、しかしまたこれをいいって評価する人もいるんだからね。楽しんでもらうためには、お見せしたっていいし足湯などと合わせて、新しい仕組みを作っていきたいね」

 木村さんの浅間温泉を良くしたいという熱い思いが伝わってくる。

 私が、浅間温泉に20年前から来ていたのは浅間に暮らした時期もある川島芳子の関連だったことを伝えると、「やっぱり犠牲になってる人がいるんだよね、死ななくてもいいのにね、ほんとに銃殺なんかされたの?」と芳子の最期が銃殺とされていることもご存知だった。そこから再び話題は戦争のことになっていった。木村さんは、沖縄で戦死した親戚の話、小澤さんもお母さんのお兄さんがラバウルで船ごと沈められた話になる。

 「昭和17年ごろから志願して立川の東京陸軍航空学校って学校に行ったの」

 今は昭和記念公園になっていて、小さいころ夏には大きなプールに泳ぎに行った場所だ。航空学校ということは時期的に特攻隊もいたのだろうか。

 「もちろん行ってる、多い時は8人くらい行って死んでるよ。私のグループが一番多いね」

 戦争の話はやめだ、と木村さんがなぜ最初に質問を遮ったのか、その理由が分かったような気がした。同世代の友人を多く失くした木村さん。多感な時期に思うところも多かっただろう。当時は多くの青年がパイロットに憧れた。木村さんより6歳年下の小岩井孝さんも「早く戦争へ行って憎い米英と戦いたい」と陸軍少年飛行隊の試験を受けて、体格検査で落ちたことを書いている。小岩井さんは目標を「一刻も早く兵器を作る」ことに切り替え、松本工業学校へと入学している(前掲『遠い太鼓 第三集』)。木村さんもパイロットの検査では適性がなく他の科で学び、その後は陸軍航空士官学校にいたが、終戦を迎えたのは身内の葬式で一時的に上田飛行場に戻ってきていたときだったという。木村さんと小岩井さん、二人とも飛行兵を目指していた。

 「私は適性がなかった、そのつもりでいったのに」

 と木村さんは笑った。

 「紙一重でね、不運ってね。御国のためと言いながらもね、犠牲になってきてるわけでしょう。馬鹿な戦争をやったもんで。戦争はやっちゃいけないね。だけどもう今ちょっとおかしな情勢、おかしな人たちがいるね。なんであんなことやっているのか、馬鹿なことを」

 この国の行く末を案じる焦りの滲む言葉だった。馬鹿なことを馬鹿なことと断言できる世代の人と、話せるのもあとわずかな時間なのだと木村さんの言葉を胸に刻んだ。