YUARITE ART PROJECT 2022

ぼんぼんと三九郎

 夕方近く本郷図書館へ行き、松本ゆかりの歌である「ぼんぼん」と「三九郎」の歌の楽譜を見つけることができた。女の子の祭りとされる「ぼんぼん」は、男の子の祭り「青山様」と並んで、平成4年に松本市の重要無形文化財に指定され、平成13年には長野県選択無形民俗文化財になっている。これらの祭りは、一時すたれたものの昭和60年ごろ保存会が結成され、歌の講習会などが開かれた結果、現在に繋がっている。1783年菅江真澄はお盆の松本に滞在しており、およそ240年前の「ぼんぼん」の形を書き残している。


女の子たちが7日の夜と同じように着飾って、「大輪にござれ、丸輪にござれ、十五夜さんまのわのごとく。」とうたい、ささらをすり、群れだって歩いている。手に手に松明を持ち出して門火をたく。また、五尺ほどの竹の先に付けた松明をもやした煙が、あっちでもこっちでも立ち上り、月もさえぎられて空も暗くなる。家に入って魂祭りをする。あか棚に向かうと、今はこの世にいない母や弟の面影も浮かび、知らぬ他国まで付き添ってくださるかと、そぞろに涙があふれてきた。

(菅江真澄の信濃の旅』信濃教育会出版部)


 こうした行事はそもそもは「盆釜」や「盆勧進」といわれ、子どもたちが盆に米や銭をもらい、戸外で飯を炊いて食べ、家々に少しずつ配り歩く行事がもとにあったとされる。七夕から盆にかけての女児の共同飲食は長野県、東海地方にも事例が多いという。遅くとも18世紀中ごろには江戸からぼんぼんが松本に伝わったとされる。「大輪にござれ、丸輪にござれ、十五夜さんまのわのごとく。」という歌詞は、現在伝わるものとは異なるが、輪になって街を歩いたといわれる小町踊りを連想させる。木下守氏は「青山様」と「ぼんぼん」はもともと別々のもので、現在は同時に行われるが、「文化財指定が一括で行われていることは考えさせられるところである」と指摘している(「ぼんぼんのこと—ささら踊りにもふれながら—」『長野県民俗の会会報32』)が、「元来「ぼんぼん」と「青山様」はどこでも並行して行われ男女対立の行事であった。それら男の青山様は衰退してしまったのだが、松本には元型が男女子併行してそのまま現存しているところに大切な意味がある」(『信濃の民謡』)の指摘もある。文化とは常につくりかえられ続けていくものであり、セットで広まった時期があるのであれば、一括での採択も妥当かと思われる。


ぼんぼんとても今日明日ばかり あさってはお嫁の萎れ草 萎れた草をやぐらに載せて
下から見れば 牡丹ばな 牡丹の花は散っても咲くが 情けの花は今ばかり


 いくつかのバージョンがあるが概ね一番は上のような歌詞である。なんとなし女性としては、お嫁になったら花の盛りを過ぎて萎れていると言われているようで、儚いものを感じる歌詞だが、猥歌としての解釈や盆に仏参に行く姑がすぐに帰ってくるので嫁ががっかりしている、という解釈もあるようで、古謡は全般に安易な理解はできないものだ。ただし『信濃の民謡』には5番まで歌詞が載っているがその三番が次のようなものだ。


あの山陰で光る物は何じゃ 月か星か蛍の虫か
月でもないが 星でもないが 姑のお婆の目が光る 姑のお婆の ホイホイ


 これを見ると、謎めいた1番の歌詞も嫁姑問題を背景に作られたものなのかとも思わされる。一行目の歌詞“あの山陰で光る物は月か星か蛍か”というタイプの歌詞は、てまり歌やうす引き歌などに類歌の多いもので、とりわけ埼玉の東松山に伝わるものはメロディが美しく山田耕作も注目して譜に起こしている。盆歌や労働歌、子守歌は互いに歌詞やメロディを融通しており、その混在具合がまた面白い。

 村杉弘『信濃の民俗音楽』によれば、「ぼんぼん」の古い記録としては佐久の郷土史家吉沢好鎌(1710~1777)の「四隣譚藪」に1670年ごろの佐久の小唄として「ぼんぼん きょうあすばかり あしたは山のしおれ草」が記録されているという。

 大正7年に残された松本女子師範学校一年生が残した日記には、「妹は今年尋常科四年になるけれども、何分我儘者で着物も着せてやらなければ騒ぎ立てて仕方がない。妹の友達は皆美しい姿をして誘いに来た。すぐに立ち上がって、お盆歌をくみに行った」と残されている(小松芳郎「歴史の窓」『松本市史研究 第32号』)。当時は女の子が互いに肩に手をかけて街の中をねりあるくのを「盆を組む」と言ったという。美しい言葉だと思う。

 見つけた譜面のもう一つは「三九郎」の歌だ。三九郎は「どんど焼き」の別名でもある。東京ではよほど西部でないと残っていなさそうだが、地方ではまだまだ正月の風物詩というところも多いだろう。2年前に東京の区部から市部に引っ越してみると、小学校のPTAの役の一つに学校内で行われる「どんど焼き」の委員があったので私は喜んで応募したのだが、なぜか二年とも別な役にされてしまった。そもそもコロナの二年間で学内行事自体がほとんど中止になっていたのだが、それでも市部にくるとこういう形で伝統が現代に繋がっていることもあるのだなと妙に感動した。図書館でみつけた『信濃のわらべうた』掲載の三九郎の歌は次のものだ。


さんくろやい くろさんやい だんごをやきに きておくれ
いちくろう 二くろう 三九ろう 四九郎 ごくろうさまでも きておくれ


 「正月に飾った松や竹をきれいにやききよめるのは古来のしきたりでどの地方にもあった。子どもたちは餅をもって集り、焼けた炭火でやいて初棚に供え、これは家内中で食べると、その年は無事息災であり、燃えさしの木を持ち帰って家の屋根に投げ上げると火災を免れるという」と註がある。ちなみに、小澤さんが子供の時歌ったと教えてくれたのは「さんくろう 四九郎 じいさんばあさん孫連れて 団子を焼きにきておくれ」だった。三九郎が「くろさん」と愛称になっているのも、「じいさんばあさん孫連れて」もほほえましい。子どもたちがはりきる姿が目に浮かぶようだ。

 『遠い太鼓 第二集』には、飯島兼十さんの「大正末期の子供の集い」という回想が収録されている。


三九郎祭(道祖神祭)
1月15日夜、門松として正月用に松飾りに使用した松や関係の品々を燃やす祭である。浅間の4地区で行われた。
12月下旬に高等科の生徒が親玉(指揮者)となり、小学一年生から、各4地区でそれぞれ集まり、各戸に、「道祖神様を祝って下さい」と言って回って歩く。その時、男性の性器と同じ型の木製で約50~70センチくらいの大きさの「オンマラ」を持ち歩き、寄付をお願いし、特に婚礼のあった家からは祝儀を多くいただいた。
各地区共、十二月の暖かい日に、三九郎を燃やす場所に立堀りをいたし、松の心棒を建てる穴を掘っておく。1月の10日頃、山より伐採致し、これを建てて用意する。(中略)翌16日、学校終了の後、この片つけ。燃え残りの残材を豆腐屋へ持って行って、薪用に買って貰った。
その日の夕食に参加者全員が親方の家に招待され、五目めしをいただき、賞品に鉛筆、手帳をいただき解散する。


小岩井孝さんの回想は、「小屋掛け」についても詳しい。年末から準備する小屋は6畳ほどの広さで高さは1メートル、周囲を炭俵やむしろで囲み、屋根は松の枝で葺く。小屋の真ん中にいろりをつくり、中で餅を焼いて食べた。オンマラサマはワセリンで磨いて黒光りさせたというのが、何とも興味深い。学校が休みになると小屋へ泊り、隣の三九郎仲間から「自分たちの三九郎を守るために」大音寺の山のアカシアの木で木刀を作って寝ずの番をしたという。


三九郎の火で書き初めを燃やすと習字が上手になる。餅を焼いて食べると虫歯にならない。焼け残った木を屋根の上にのせると火事にならない。あるべきところに毛のない人は灰をすりつけると毛が生える。等々霊験あらたかなことをいわれた。(中略)小屋では様々なことを教えられたが、それは仲間の連帯感、長幼の序、今でいう社会的訓練ということであった。小屋の中では当然三九郎の歌を合唱する。

(前掲『遠い太鼓 第三集』)


 滞在時期が年始だったこともあり、8日に女鳥羽川の河原で三九郎のやぐらが焼かれる様子を見ることができた。それぞれの地区がいろいろなところで、開催していたが、私が見た地区ではコロナ対策のために、「まゆだま」と呼ばれる、柳の枝に花のように餅をつけたものを焼くことは禁じたようだった。その後車で移動中に、まゆだまを持った子供たちも見かけたので、地区によって判断が分かれたようだ。やぐらは中くらいのものから大きなものまでいくつかあり、数珠つなぎのようにつなげられただるまが巻き付けられ、下には燃えやすい草や松飾がつめられている。消防の人が点火し火が回っていくと、もうもうと煙があがり、達磨をつないでいた綱がきれて焼けた達磨が落っこちてくる。予想を超えたどんど焼きの姿は圧巻だった。子どもたちは遠巻きに眺めていたけれど、まゆだまが有ったらよかったねと食いしん坊の私は心でつぶやく。子どもにとっては幼いころの食の記憶というのは思い出としっかり結びついて残るものだ。屋外の催しであり、このような「対策」も早く切り替えていってほしいと部外者ながら思った。小澤さんが連れて行ってくれたスーパーでは袋入りのまゆだまの隣にマシュマロが置かれていて、伝統が今らしい形に変化しつつあることも伝えていた。

 三九郎の歌はもちろん、河原の三九郎で歌われてはいなかった。恐らくは、こどもたちによる小屋掛けがなくなった時期と歌が消えた時期は同じであろう。これらの活動は大人と子どもの間の世代で、子供たちをまとめる「親分」と言われる先輩の青年たちによって率いられていた。寺沢昭氏はこうした習慣が消えたことに触れ、次のように書き残している。


上下のつながりは、地区子供会のお母さんの意見によってのみ子供の活動があり、子供たちの自主性は、ほとんど見られなくなってしまった。誠に悲しいことである。(中略)大人の都合ばかりを考えず、もっと自由な場所で遊びを創造できる空間を与えて欲しい。

(「想い」『遠い太鼓 第二集』)


 東京で子育てをしてきた私も同感だ。公園の木に登らせてもらえる子も多くない。母親の真似をして、砂場で裸足になっている友達をいっぱしに注意する幼子さえいる。危ない、汚いと先回りされ、色々な体験から遠ざけられて、子供の身体と心はどのように育つのだろうか。小澤さんの頃の話では、子供たちを率いていた親分は「なんの仕事をしているかわからないような兄ちゃん」のような人だったという。コミュニティの中で端っこにいるような、不思議な立ち位置にいた人物が子供たちをまとめていた。子供たちにほぼ全面的に任された時代から、準備進行が大人の手に渡っていくそのはざまに小澤さんたちはいたのかもしれない。

  三九郎は道祖神祭ともされている。道祖神信仰はひそやかに全国にあれど、ことのほか長野の道祖神は数が多く、戦後新しく作られているものが多い事からも県民に非常に親しまれた神様であることがわかる。そして、オンマラサマというご神体からも分かるように性神としての側面も持つ。一方でまた別の顔を持っている。有名な『おくのほそみち』の序文を思い出す方もいるかもしれない。

そぞろ神のものにつきて心をくるはせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず。


 これは、50で亡くなった芭蕉が45才のときの心境である。もちろん、異性のことを考えてしまって落ち着かない、という告白などではない。芭蕉を招いたのは漂泊者・旅人の神、道の神としての道祖神だ。すぎし日の漂泊者の中には芸能者が含まれていた。このことはシャクジの物語とも濃密に入り混じっていくことになる。