YUARITE ART PROJECT 2022

目の湯の夜

 富貴の湯は現在「伊藤園ホテル」となり、当時の面影を伝えるものは植え込みに佇む石灯篭唯一つになっているが、当時の面影を残し現在も続いている唯一の「目の湯旅館」もまた、特攻兵たちが泊まった宿だった。

 富貴の湯に泊まった特攻兵たちがおもに「武揚隊」の隊員たちだったのに比べ、目の湯に泊まったのは先発隊でもあった「武剋隊」の将校たちだった。

 私は夏に再び浅間を訪ね、目の湯に泊まった。主人の中野さんによれば、玄関を正面にして右手の棟が大部屋で学童疎開の男女の児童たちが泊まっていたということだった。武剋隊の隊長は廣森さんといって、「めんこい仔馬」の好きな優しい人で、生徒たちの大部屋によく現れたという。「めんこい仔馬」は、1941年公開された陸軍省選定の東宝映画『馬』の主題歌だった。黒澤明が助監督で関わっているこの映画は、手塩にかけた愛馬がラストには軍馬として買われていくあらすじだが、歌の世界は最後まで馬への愛に満ちたものになっている。二葉あき子の歌唱に、少女の声が重なって、より牧歌的な印象だ。


濡れた子馬のたてがみを/なでりゃ両手に朝の露/よべばこたえて めんこいぞ オーラ /かけて行こかよ 丘の道/ハイドハイドウ 丘の道(一番)
明日は市場か お別れか/泣いちゃいけない 泣かないぞ/軍馬になって征く日には オーラ/みんなでバンザイしてやるぞ/ハイド ハイドウ してやるぞ(五番)


 「軍馬になって征く日には」「みんなでバンザイ」されて死地に送られる身、人も馬も同じ時代だったとも言える。メロディは明るい歌だが、廣森隊長はどのような思いをこの歌に感じていただろうか。

 浅間温泉から彼らが通っていたのは松本飛行場だ。浅間温泉からは車で30分ほど。松林に囲まれた一角は、今はまつもと空港として利用されている。滑走路の周囲は子供用遊具なども整備され芝生の広い公園のようになっており、サッカー場も見える。曇天の中、キセキレイだろうか黄色い鳥が芝生を速足で駆けている。目の湯にいた男の子たちはもれなく松本飛行場へ訓練見学にも行っている。3月15日に中沢敬夫少年が父親にだした手紙には詳細にこの日のことが書かれ、「僕たちはみんな、隊長さんと手をふると、飛行機のつばさを左右にふって合図しました。そして何回も向ふへ行ったり、こちらへせんかいしたり、ひくくなってつばさを左右にふったりしている間に、だんだん低くおりて来て、じゅんじゅんに着陸しました」と飛行場での様子が報告されているし、浅間温泉の菊最中で知られる菓子屋「平和堂」のご主人も梅の湯の特攻兵たちに頼んで飛行場を見学させてもらった時、モックアップの飛行機に驚いたことを証言している(きむらけん『鉛筆部隊と特攻隊』)。

 現在まつもと空港の敷地内には小さな図書館「松本市立空港図書館」があるが、ここの館長もつとめられた川村修氏が、松本飛行場についていくつかの論文を残している。松本飛行場は昭和18年突如として軍から用地収用の命令が、今井・笹賀・神林の三つの村に通達された。戦勝ムードも強く、地権者は通常の4分の1ほどの値で差し出さざるを得なかったという。

 川村氏は、多くの証言から、旧陸軍松本飛行場のを鳥瞰図として再現しているが、その図には飛行場の上を飛ぶいくつもの三菱の戦闘機に混じり、「中島一式戦闘機 隼」も描かれている。武蔵野地域に工場を持っていた「中島飛行機」の関連工場は、私の住む街にも沢山あった。勤労奉仕で学生たちが工場に動員されたが、当然工場は空襲の標的とされ、学生の被害もでている。時には何を作っているかわからないまま部品作りに動員され、出来上がった戦闘機が松本を飛んでいたかもしれない。加害の一端に組み込まれた市民は、そのまま矢面の被害を受けた。飛行場も工場ももちろん基地も、戦争が始まれば一番に狙われる場所だ。その最低限のリアリティさえ、今の戦争をめぐる議論には欠けているような気がしてならない。

 戦闘機の試作は続けられていたが、戦争末期の日本にはすでに燃料が不足し始めていた。政府は松根油や松脂の採取を全国に割り当て、松本でも「根を砕いて入れ、高圧で蒸して」油の採取が試みられたが、実際に航空燃料にするには至らなかったという(前掲『松本市史』第25号)。当時の先端技術といってよかった戦闘機を、松の油で飛ばすしかない状況に日本は追い込まれていた。

 浅間温泉に昭和19年の8月にやってきた児童たちも、20年5月ごろには再疎開を余儀なくされている。松本周辺の空襲を避けるため、陸軍病院の内科の軍人患者たちを浅間の旅館に転院させることになったためだった。このとき、坂本の湯の寮母をつとめた女性は子供たちとの別れを「十月住みしこの地を去れるとふことのいかにつらきか泣き入りてやまず」と詠んでいる(滝川ひで「疎開児童と過ごした日々」『遠い太鼓 第二集』)。秋元さんたちは、飯田のお寺に再疎開した。終戦3か月前、すでに食糧事情も十分に悪くなっていた。寺に寄宿しながら、近くの農家の手伝いにかりだされると、おやつがもらえた。

 「おにぎり出してくれるんだけど、さきのここんとこちょっとかじっただけで、あとはポケットの中に入れて。弟が二人いましたから。で、お掃除の時間にね、穴場だったからトイレの後ろに隠れてそこに弟二人呼び寄せて二人に食べさせてあげて。ずっと戦後もそのことは、おにぎりをもらえなかったら飢え死にしてたと感謝されますね」

 最初に秋元さんを訪ねた時、当時の写真を見せて頂いて、このやせっぽっちが私とおっしゃったのを覚えていた。その背景にこんなエピソードがあったのか、と胸をうたれた。空腹のときに、それでも自分が弟たちを守らなければという使命感が少女の胸に燃えていたのだと知った。当時はみなが空腹で薬局で買ったエビオスを食べたり、それさえ買えずに甘みのある歯磨き粉をみなで舐めていたという信じがたい話も伺った。耐え難い空腹に襲われると人はとにかくそのとき口に入れられる物を食べるのだ。広島の戦災孤児たちが、何も食べるものがなくなって路上にちらばる新聞紙を口にいれていたという証言を聞いたときの衝撃を思い出す。やせた子供たちが世田谷に帰ったころ、軍用飛行場としては短命に終わった松本飛行場は夏草が放置され秋を迎えた。

 川村氏は『松本市史研究』第25号の論文で終戦直後の信濃毎日新聞(昭和20年11月10日)を引用している。

 幸い付近に芝浦、宮田、昭和電工、日本工学などの工場ができたので耕地を失った農家の働き手は、工場の守衛となり、あるいは工員に転じて危なげながら一家の生活を支えてきたが、終戦と共に工場から追い出され、勝つためといって差し出した先祖伝承の耕地は、飛行場は、殆ど戦争には間に合わず役立たず、今は徒らに丈なす雑草が一面に霜枯れてゐるのを見ては、断腸の思いに泣きぬれざるをえないであろう。


 日本軍が満州や南洋といった植民地で同じように土地や家屋を安く接収してきたことは知っていたが、国内もまた同じだった。「終戦後も土地は戻らず無職となった市民もいた」と川村氏は指摘する。朝鮮人労務者や、勤労奉仕の学生たちまで動員されて完成した飛行場の運用は20年春からで、戦争には役立たずと書かれたが、主には爆撃機の修理基地として使われた。特攻機の改造もそうで、より多くの爆弾を積むために機体から取り外されたとみられる無線機の写真が松本市に残されている(村修「旧陸軍松本飛行場を鳥瞰図で再現を試みる」『松本市史研究』第24号)。川村氏は「市内中央の上條彰二氏」が終戦後の10日間ほど徴用工として松本飛行場にいたときに、米軍にみつからないように焼却する書類運搬をしたという証言も書き留めており、貴重である。戦争がおわり、内地の飛行場でも外地の飛行場でも書類が焼かれ、飛行機が壊され焼かれた。笹賀村では2週間以上黒い煙が登り続けていたという。

 歴史の中ではほとんど埋れた松本飛行場から飛び立った特攻兵たち。松本飛行場での訓練中に死亡した者もいたという。飛行場跡地の「スカイパーク」の芝生に佇んでいると、曇天から大きな雨粒が落ちてきた。

 目の湯のお湯は、じーんと体にしみてくるようなお湯だった。浅間の湯はどこも同じ泉質というが、湯加減なのか、これはいいお湯だなと思った。特攻兵たちは出発の前の晩もこの湯に浸かったのかと思うと、その心中があれこれと思われて、心地よさとやりきれなさとがお湯のしみわたる感覚を通じて身体的に追体験されるようだった。当時の男湯に浸かっているような気持ちでいると、男の子たちが入って来る幻影が浮かぶ。一緒になることもあったのかな。湯けむりの向こうにガラと戸を引く音が聞こえてきそうだった。

 きむらさんの『特攻隊と<松本>褶曲山脈』の中に、「満州日報」の引用があり、部下の近藤少尉の廣森隊長についてのコメントが載っている。

自分たちに優しい、そして厳しい教官殿でした。その当時から「俺は修養の足らない人間だ」と口癖のやうにいはれ禅など組んでをられたやうでした。時たま写真機をいぢつてゐたほかはたいていは一人で精神修養に関する書籍を繙いてをられた。


 私の泊まった部屋は、玄関上の二階の部屋だった。部屋の窓のそばの天井はななめに葦で葺いたようになっていたり、四角い明かり取りにの枠に、さるすべりのようなつるんとした枝がはめ込まれていたり、しゃれた造りだった。鏡台も古そうなもので、ご主人によれば、当時のままだろうとのことだった。私には霊感はないけれど、夜眠る前、部屋の片隅で本を読む廣森隊長の姿がすぐそこに見える気がした。静寂のうちに交感が始まるような、そんな目の湯の夜だった。