YUARITE ART PROJECT 2022

春宮の光

 1月5日。この日は午後一から、芸苑会館へ。かつて芸妓さんたちが、芸の練習をしたといわれる小さなホールだ。ピアノもありピアノのレッスンや発表会などにも使われるという。足を踏み入れた楽屋は、ずらっと鏡が並んで、化粧をしながらおしゃべりをしていただろう芸妓たちの往時を偲ばせた。

 その後小澤さんに浅間温泉を案内してもらう。立派な往時を偲ばせる旅館もあるが、すでに営業していないものも多い。取り壊すにも取り壊せない状況が続いているという。唯一、当時の姿のまま営業しているのは目の湯旅館という。

 その後、少し離れた御射神社秋宮へ小澤さんの車で向かう。古くは農耕系の山の神を信仰する「浅間社」だったものを中世に狩猟系の山の神をまつる「御射山神社」を諏訪下社から勧請し、のちに合社したものだという。最古の記録は『吾妻鏡』の1186年の項に登場するというから、由緒をたどると平安時代にさかのぼる。私は以前から「ミシャ」が気になってきた。その名が、シャクジという諏訪の神様と繋がっていることを知ったからだ。きっかけは「風の三郎」と歌い始める新潟の小千谷の歌をみつけたことだった。風の三郎信仰を追っていくと、どうやらその中心は諏訪だった。そして諏訪の狩猟文化と共に、ユニークな神様としてシャクジやミシャクジと呼ばれる神が存在することを知った。私が2年前に杉並から越してきた場所も近くに石神井川が流れている。これもまた「シャクジ」信仰の名残りなのだ。先日、品川駅の高輪口にぽつんと異次元になっているような神社を見つけて気になったら、いまは高山稲荷神社という名を持ちながらもかつては石(しゃく)神社の信仰があった場所だった。ここもまた「シャクジ」信仰の場だった。

 浅間の「御射神社」には二つの奥社がある。一つは山の神を古くから祀った烏帽子岩の烏帽子社。もう一つは諏訪系、狩猟系の野木場社だ。のっこばと呼ばれたその場所は、狩猟の時の仮寝の小屋である「穂屋」をつくった場所だ。松尾芭蕉も、この穂屋を眺めて「雪散る屋 穂屋の薄の苅り残し」と一句読んでいる。13世紀の和歌集である『続古今集』には藤原実経の「夜寒なるほやの薄の秋風に そよさぞ鹿も妻を恋ふらん」という美しい歌がある。鹿の妻恋は、古来民話や歌のテーマとされてきたが、その背景としての穂屋のある風景が、浮かび上がる。狩猟のための、人の手による小屋ながら、その原始的な作りゆえ秋の自然に美しく溶け込むのだろう。

 御射山(三才山)をめぐる様々な儀式は「穂屋の祭り」「流鏑馬」も今ではほぼ消えてしまったが、浅間社系の「押し鉾の祭り」も昭和30年代に「春秋両者の分裂によって行き場を失っ」たとされる(倉科明正「山の神の信仰とその送り―松本市三才山字本郷山の場合―」『長野県民俗の会会報21』平成10年)。春に山から里におりてくる山の神は、稲穂が垂れるのを見て、山に帰るとされた。山宮に帰る神様を山にお送りするのが「押し鉾」であった。これこそが浅間の御射神社において最も重要な儀式でもあった。しかし、昭和30年、秋宮と春宮で「押し鉾祭り」をめぐって意見の相違が生まれ、以後この儀式は途絶えてしまったという。これに関連し、明治期から行われていた「松明送り」に、戦後「神送り」という解釈が定着していったことについて、倉科氏は、本来は水の神でもある御射神社に火祭りはずれていると指摘する。しかし18世紀より虫の大発生に火で対抗することが、西日本で「虫送り」として行事化したものが長野にも伝わってきて、戦後「押し鉾」を失った人たちが、それを「神送り」としての「松明祭り」として必要としたのではないかと分析している。各地の御射山祭りを考察した内山大介は、現在行われている形としては、腹の神や、虫送りなど疫病送りの要素が残っているが、それらはもともとの御射山へ神を送るという性質と、「送る」という行為によって結びついていると指摘しているが、最後に未着手の課題として諏訪信仰の薙鎌を用いる風祭りとの関係性も考察されるべきと指摘している。浅間でいまだに風祭りが続いていることは、やはり諏訪信仰、特に諏訪大社下社の農耕系儀式の残滓と考えていいものだろう。

 山の秋宮へと向かう。境内にも雪がまだ多く残っており、子どもたちも雪で遊び始めた。社に近づくと、穴のあいたひしゃくが柵をいくつもかけてあるのが、目につく。ひしゃくから細い柵が突き抜けている。これは子安神も祀られているためらしく、底が抜けていて水がこぼれることから、「抜けやすく」お産が安産で済むようにという伝えは、他にも広く見られるようだ。古くはひしゃく自体が女性器の象徴を意味してきたので、もともとはもっと直接的な伝わり方をしたかもしれない。その他、もとの浅間社のころから引き継がれたと思われる虚空蔵さまも祀られている。そして諏訪の神。シャクジに連なる「御射」信仰の社を目にしていると思うと、感慨深いものがあった。シャクジと直接のつながりはないが、子安信仰のいくつものひしゃくが、山深い社殿の薄暗い静けさの中、一種異界感を添えており、合祀によって多様な神へと開かれながら、歴史を重ねてきた場の面白さを感じた。秋宮入口に「尾花ふく穂屋のめぐりの一村にしばし里ある秋のみさ山」という歌碑のあった金刺盛久は鎌倉時代の諏訪大社下社の大祝であったそうだ。金刺という姓は多氏系と言われる。多氏の人々は歴代宮中の雅楽奏者としても関わってきたことで知られるが、万葉集を編纂した太安万呂の太氏をルーツに持つ家である。そして本来多氏や熊本の阿蘇の麓を本拠とする一族である。阿蘇と諏訪信仰にどのような接点があるのか、このときは知る由もない。ただ、風の神様をおいかけていた私は、阿蘇で高森風鎮祭というお祭りが続いていることが気になっていたのでそのことをふと思い出した。

 その後訪れた春宮はいかにも里宮、身近な神様という感じがした。前から見るとそれなりにこじんまりしているが、裏山の方まで登っていくと、その全体像本殿を供えた全体が見渡せる。境内には江戸期の道祖神も3つあり、道祖神と文字が彫られた石、絵で男女の和合が彫られているが古さゆえに判別としない道祖神など、それぞれにお正月のしめ縄と松葉がさりげなく結ばれていた。説明版には、もとは浅間社で大山祇を祀っていたが、14世紀に諏訪の神が合祀され、五穀成就、武運長久の守護神として信仰されるようになったとある。このとき、案内板の説明や道祖神を写真に収めた。すると、後で見返すと不思議な光が写っている。
それは道祖神と書かれた石と、案内板の写真の二枚にはっきりと写っていた。iphoneなので案内板の方は、15時22分の撮影とわかる。大きなシャボン玉のようなものが、案内板の三分の二ほどを覆う形で写っている。案内板のガラスに映り込んだiphoneを構える私の姿もシャボン玉の光にすっぽり包まれている。道祖神の方は15時25分に撮ったもので、ちょうどくらげの頭のような平べったい円形のシャボン玉の様なものが、石の下半分を含む形で写っている。こういう不思議な写真が撮れた時に見てもらうのは出雲のアーティスト・歌島さんだ。ジャズピアニストでありながら、世界各地の民俗楽器を演奏もでき、「わたしの好きなわらべうた」というアルバムを過去に二枚作った際にも、参加してもらった。歌さんは、いわゆる目に見えないものを感じることのできる人で、そういった世界への興味はあっても、アンテナが鈍くて何もわからない私は、不思議なことがあるといつも歌さんに報告する。そしてその意味や写ったものたちについて質問しては、歌さんの答えをもとにあれこれ考えたり、想像したり、調べたりすることが好きだった。歌さんは他にも色んな人から不思議な写真が送られてくるという。中にはカメラと太陽光が作った偶然のような写真も多いそうだが「サホさんの写真は、何かしら写ってることが多いですね」と言われていた。その日の晩、春宮での不思議な写真2枚を送った歌さんから来た返信は、次のようなものだった。

「わ、何だろう?上の方の光はハレーションかなと思ったけど、神という字の下に何かいますね。お腹にぐっとくる。蓑笠みたいなのが見えるんだけど。そんなおどろおどろしくはなくて精霊みたいなんですよ。紗穂さんに重なってる感じもして、親しみを感じてるというか、付いてきてるかな」

 道祖神の蓑笠の精霊。不思議に思ってひとまずネットで調べてみると、蓑草鞋という妖怪がウィキペディアに出てきた。その中に「蓑は来訪神の多くが身に纏っているように呪力がある」と記載がある。年始というタイミングもあるのだろうか。来訪神に出会えたのだとしたら大変ラッキーだ。そんな感慨を持って東京に帰ったあと、私は改めて、道祖神、シャクジ神(宿神)、蓑について調べて行くうち、何故歌さんが蓑笠の精霊をそこに見たのかが次第にわかって来た。

 ネット上には歴史に詳しい人達がブログに御射神社春宮秋宮について書いてもいて目を通した。しかし、詳しい人ほど諏訪の話はここでは煩雑になるので、と避けているのが興味深い。それほどミシャ(ミサ)神社でありながら、ミシャクジの話を始めると大変なのだ。

 しかし、「蓑の精霊」というごく具体的な神様と接点ができてしまったからには、そこに分け入っていくしかない。

 私はシャクジについて知るためにまず『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』という本を手に取った。これによれば、諏訪には古く守矢(洩矢)という人々がおり、狩猟や焼畑の原始的な農業を営んでいたが、彼らが信仰したのがミシャグジ信仰ということだった。後に出雲から追われたタケミナカタの勢力が諏訪に逃げ延びて支配者として大祝の位につくも、守矢一族は神長官という形で実質的な権力を握り続けた。驚いたのは、おこうさまと呼ばれる神使としての少年が生贄として鎌倉時代ごろまで密殺されていたということだった。少年は植物神、とりわけ稲魂の化身とされ、12月からの厳冬期に土室に籠り、3月に出てくると饗宴の後に馬に載せられ藤のつるを身体に巻かれて、松明を持つ人々が見守る中を馬で巡りやがて馬から落とされて殺されたという。アイヌのイオマンテをも思わせる、神殺し、神送りの風習が諏訪の地にかつてあったのだ。土室で生命力を蓄えた稲魂は殺害されて土に埋められることで、その年の豊穣を約束すると考えられた。

 その次に手に取ったのは、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』と同シリーズの「古部族研究会」による『諏訪信仰の発生と展開』だった。この本には、北村皆雄による「薩摩の諏訪信仰」という小論が掲載されており、そこに「異本阿蘇氏系図」なる家系図が載っていたのだが、大きな衝撃を受けた。587年用明天皇が亡くなった年に、「熊古」(熊子)なる人物から以下の子孫たちに諏訪大社上社系の「諏訪大神大祝」という役職が付与されているのだ。秋宮前にあった金刺氏の歌碑を思い出す。金刺―多氏もまた阿蘇ルーツの一族であった。こちらは「諏訪評督」という地位で諏訪大社下社の系図に連なっている。阿蘇の氏族たちがある時点から諏訪に接続しているのだ。北村は「外的政治の力が背後で働き、大祝という世襲制の生き神を、ある時期に制度化したということである」と解説する。九州からやって来た彼らは隼人と呼ばれ、大陸との行き来もしていた海洋民族であった。諏訪の神が軍神として崇められることの背景について金井典美は次のように推測する。


諏訪明神が神功皇后の三韓征伐に、住吉神と共に軍船の水先案内となり、又坂上田村麻呂の蝦夷征伐に一人の騎士となってあらわれ、皇軍を先導したという説話なども、それが事実か否かは別としても諏訪氏が隼人の末裔としての認識が反映していたのではあるまいか。

(「諏訪信仰の性格とその変遷」、同上)


大化の改新以前の話である。すでにそのころに日本列島の東西の人々はこれほどまでにダイナミックに交渉を持ち、文化を伝えあっていたのだ。学校で習わない歴史の細部のなんと生き生きと魅力的なことだろう。諏訪信仰の起源はなんとも広い奥行をもち、複雑な歴史を秘めていることだろう。しかし、蓑の精霊の謎にはまだ近づけていない。