神宮寺をめぐる縁
春宮からほどちかい神宮寺まで歩く。ここは御射神社の別当寺だ。神宮寺という言葉自体がそもそも、神社付属の寺を意味する。明治の廃仏毀釈までは日本で長く続いてきた神仏習合の象徴的存在でもある。御射神社が浅間社に勧請されたのは中世末と言われるが、神宮寺はまだ浅間社であった平安時代から別当寺になっていたとされる。このお寺とも不思議なご縁があることに後から気付いた。私は2010年、ビッグイシューサポートライブという音楽イベントを始めることになった。イベントに来てくれた人に最新号のビッグイシューを配ることで、この雑誌を知ってもらうという試みだ。ビッグイシューはイギリス生まれの雑誌で今は450円で月二回の発行。これを路上生活やネットカフェに暮らす人々が駅前などで売ることで半額が彼らの生活費となる。雑誌としても色々な特集が取り上げられ、先駆的な生き方や活動をする若い人なども紹介されることもあって、もっと多くの人に知ってもらいと感じていた。そのためのイベントの初回を、人の伝手を頼ってとある都内の寺で開くことになった。しかし、ここでのビッグイシュー販売員の方々へのお寺側の対応がなかなかひどいものだった。杞憂は準備段階からあった。当初、私はビッグイシュー関西で結成されていたおじさんたちのバンドを出演者として呼びたいと考えていた。そこで、大きな敷地に宿坊も持っているお寺側に、彼らの宿泊について交渉したところ、住所のわからない人を泊めることはできないと難色を示されたのだ。このお寺は、表向きは色々なイベントを行い、開かれたお寺のように見えるが、肝心のところの、宗教心のかなめとも思われる、分け隔てない心を持っているのだろうか、と疑念を抱かざるをえなかった。現在の日本の仏教はもしかしてかなり終わっているのではないか。どこに希望があるのだろうか。そんな思いから仏教関連の本や、僧侶の人が書いた本を探した。そんななか見つけた一冊が高橋卓志『寺よ、変われ』だった。まさに当時の私の心の叫びを代弁するタイトルに惹かれて手に取り、このようなお坊さんがいるのならまだ希望がありそうだ、と感じた。当時、どこのお坊さんとあまり意識せずに読んでしまったが、太平洋戦争の南方戦没者の遺骨収集にも関わったこの高橋氏こそ、浅間温泉神宮寺の住職だったのだ。氏は丸木俊・位里夫妻とも親交があり、神宮寺の戸や壁には夫妻の描いた絵が今も残っている。丸木夫妻とりわけ丸木俊さんのことは、私自身が戦前のパラオのことを調べる中で彼女が訪れ、土方久功の世話になっていることを知った。不思議な縁は続き、埼玉にある丸木美術館から「開館記念日にライブをしてください」という依頼を受け、四方を壮絶な丸木夫妻の絵に囲まれ、天井から差し込む光と鳥たちの声をたよりに会場で歌ったのが、4年前のことだ。高橋住職は現在入院中とのことだったが、色々な繋がりが分かった。神宮寺玄関前に「劫火~原爆の火」というモニュメントがあり、原爆被害を忘れないための消えない火が燃え続けていた。そこに添えられた山尾三省の言葉は2001年6月のものだ。
南無浄瑠璃光 われら人の内なる薬師如来 われらの日本国憲法第九条をして 世界のすべての憲法第九条に 取り入れさせたまえ 人類をして武器のない恒久平和の基盤の上に 立たしめたまえ
若い人たち例えば今の20代の人々は、どのように読むのだろうか。理想主義じゃないかとか、団塊の世代の思考だなとか思うのだろうか。ウクライナの戦争が始まってから、日本でも軍事費を増額すべきとの世論が広がった。そして、殺傷能力のある武器輸出にむけても政府が動き出している。20年たっても100年たっても、人間は人間を傷つける武器を手放すことができないのだろうか。武器のない、あるいは厳しく制限された世界を夢見ることは、馬鹿げたことだろうか。A国が打ったミサイルを打ち落とすためのB国のミサイルがC国におちてC国の人間が殺されることほど馬鹿なことがあるのだろうか。「平和」のために「敵」を殺したはずが、戦争が終わっても殺人の記憶が兵士の心の平和を蝕み続けることほど馬鹿げたことがあるのだろうか。人間はロボットではない。一体「何が馬鹿げているのか」について、見誤ってはならない。山尾の詩のモニュメントのそばには、大場敏弘作の祈る女性像が3体、小ぶりの白い姿で立ち「祈り ナガサキ」「祈り ヒロシマ」と黒い石札に彫られている。高橋住職の平和への思いが反映された玄関にしばし佇む。和室に上がらせてもらうと、襖絵がいくつも描かれていた。赤い山並み、青い山並み。牛と牛飼いの話をもとに修行の過程をたとえて描かれた「十牛図」が、「第一失牛」「第七騎帰」といったタイトルが絵ごとについて、外の板戸に墨で素朴な筆致で描かれている。さらに8月にしか限定公開されない「原爆の図」の襖絵もあるという。丸木位里の郷里は広島で、原爆で父や叔父、姪二人を亡くしている。自らの寺の襖にその地獄絵を描いてもらった高橋住職の覚悟、それにこたえた丸木夫妻の思い。その襖は見られなかったが、両者の繋がりに思いを馳せた。
うつくしく整えられた庭を歩くと、与謝野晶子の歌が彫られた黒い大きな碑があった。
たかき山つつめる雲を前にして 紅き灯にそむ浅間の湯かな 晶子
そばの案内板に昭和11年上高地からの帰途浅間の「富貴の湯」に泊まった晶子が詠んだものを、戦後、旅館主の滝沢久馬雄が建立したことがわかった。湯の恋しくなるような、浅間の夕暮れの澄んだ冷たい空気が伝わってくるような歌だ。今は「伊藤園ホテル」となり、当時の面影も残らず消えてしまった「富貴の湯」だ。後に芸妓歌手になる若き日の市丸が専属ででていた浅間温泉でも屈指の旅館だ。この富貴の湯については、きむらけん氏の本を読む中で、別な意味で重要な宿であると知る事になる。