YUARITE ART PROJECT 2022

浅間で育った一女性のことば

 7月の再訪時、小澤さんの紹介で「あさま茶房」で、本郷図書館長もされていたという新納道子さんにお話を伺った。昭和23年生まれの新納さんは、図書館長を務められた経歴が物語るとおり、浅間の戦後の街の変化について、詳しい知識をお持ちだったが、さらに驚いたのは、彼女のお父さんが川島芳子の実弟・愛新覚羅憲東氏と松本女子師範付属小学校で同窓だった上、教育史の中では有名な「川井訓導事件」の川井清一郎先生のクラスだったという。川井先生は「修身」の授業で国定教科書を用いなかったことを理由に大正13年退職させられた。大正自由教育運動の広まるさなかの一つの大きな事件として知られている。一時は教師もされていた新納さんは、短大で教化教育法の授業の中で「川井訓導事件」が出てきて、こんなすごい事件だったのかと驚いたという。

 「川井先生が松本駅から広島に去っていったんですけど、父と川島義治(憲東)さんもお見送りに行ったそうです。その後、義治さんは陸軍士官学校を出てから満州に渡って、大連で結婚式をあげて父も行っているんですね。父は松本二中を出たあと代用教員になったけれど、義治さんに満州は景気良いから来いよって言われて、満州に渡ってロシア人家庭に下宿してロシア語を学んで通訳になるんです。そして満鉄に入って」

 私と浅間温泉のつながりはそもそもは、学生時代から川島芳子を調べていたことに繋がる。修士論文も彼女について書いた。しかし、今回のリサーチでは特にとりあげるつもりはなかった。しかし、やはり浅間温泉、こうして自然と繋がっていく。なにしろ私は大学時代北京まで憲東さんを訪ねているのだ。新納さんのお父さんがそれほど彼と親交のあった方とは驚いた。

 「昭和50年くらいに父が芳子さんのことを“川島君はどこへ”ってあちこちの新聞に投稿したんですね。市民タイムスとか朝日とか。そのときに義治さんが中華人民共和国で生きているというのもわかって、彼が農業をやってミミズの研究もしているというので、沢山ミミズをあつめて中国に行ったんです」
憲東さんとの再会を機に、同窓会が松本で開かれたり、芳子の親族である廉子さん、金若静さん、愛新覚羅連経さんらも松本を訪れるようになる。学生時代、私も林友のホールや香蘭荘でお会いした方々だ。さらに新納家には、そうした縁が広がってラストエンペラー溥儀の弟溥傑の七点の書も贈られてあるという。思いがけず愛新覚羅家の話が広がったあと、話題は戦後の浅間の話に入っていく。

 「学校で習う歴史は、戦後は食糧難で、外国から人が帰ってくるわ、みんな食うや食わずでって言うけど、浅間温泉は戦争終わって次の日からもう飲めや歌えの大騒ぎ。一晩に3000万円くらいあがったっていうから。満州開拓から帰って来た人、可哀そうな人たくさんいるけど、浅間温泉に限って言えば違う。どこの温泉もそうだったけど、男の快楽地ですよ。もうすごかったですよ。昨晩はどうだったとか、わたし子供ごころに耳ざとく聞いてた。家の裏が赤線だったんです。だから浅間が活性化してよくなりゃいいっていうけど、一般の人はあの毎晩三味線が聞こえてバカ騒ぎしてる頃を思えば静かになってよかった、環境も良くなったしって思う人の方が大部分だと思います」

 浅間温泉は戦火を免れた分、営業再開も早かったと言われる。しかし、本郷地区の戦時戦後をふり返る座談会で「終戦後、物不足が深刻でしたが、歯をくいしばってとにかく、みんなぜいたくを言うことなく、よく辛坊してきたものだと思います」(『遠い太鼓 第二集』)という回想があるように、同じ本郷地区であっても、旅館の集まる街中と農家とでも状況は大きく異なっていたことだろう。芸者さんももうわずかに証言者が残るばかりになった今、浅間温泉の往時を惜しむ声は多く聞かれるが、新納さんのように率直な、地元で育った女性の声を聴けるとは思っていなかった。赤線の裏という歓楽街の一角で育った新納さんだからこそ、「バカ騒ぎ」と言い切れるのだと思った。そして、そこに育った一女性としての感覚は真っ当だとも思った。

 「女の目からみてもすごいひどい時代でしたよ、横田遊郭で繰りこんで浅間で泊まる。子どもの頃本当に出鱈目だと覆いましたね。芸者と言っても、私が調べた限りではほとんどが流れてきた人で、芸に秀でた人はそう多くはなかった。当時のおかみさんに聞くと、すごい忙しいときは、民謡の一つも歌えて踊れればすぐお座敷にだしましたと。栄えていた時はね」

 新納さんが物心ついた昭和20年代終わりには基本給の要求などをめぐって芸者さんのストが起きる。長野でも最も早く芸妓組合ができたのは、共産党が強い土地だったこともあるだろうという。

 昭和40年代になると、置き屋さんでも「一人前に育てる」という感じはなくなり、芸者さんたちもアパートに暮らすようになって、呼び出しは「〇〇ちゃんお座敷かかってきて」と電話で行われるようになった。

 「分け千代元だとか、分け音羽だとか、お姉さんたちがみな独立していったのね。中核の置き屋さんには2-3人所属していたけど、あとは一人一人で」

 と小澤さんが補足してくれる。現在90近いお年の深津京子さんという元芸者さんは、三味線と長唄の名取といい、

 「深津さんは容色は衰えても芸を磨けばお弟子さん教えることで生きていけると思ったって言ってましたね。まともな感覚ですね。浅間で芸者文化が廃れてしまったのは、京都や金沢に比べてそれを支える強力な旦那衆がいなかったからでしょう。ああいう文化を自治体が支えるというのも色んな意見が出て難しいし、そこが一番違ったと思います」

 いつの世も男性は容色を求めるが、女性が本当に生き延びるためには、堅実に本当の芸を身につけるべき。深津さんの筋の通った生き方について言及した新納さんの言わんとすることが伝わってくる。

 芸妓文化の残った場所でも、ただ残せばいいという時代ではなくなっている。京都でも、先日置き屋を逃げ出した芸妓によって、飲酒の強要や性的な要求をされることがしばしばであるという現場の内部告発がネットニュースで話題になったのは記憶に新しい。文化と大雑把にくくられるが、「芸妓は何もわからない“こども”という前提」があり、そのもとで女性や少女たちが理不尽に耐えるよう求められてきた背景がある。そうした文化と、男女平等の一層の実現が求められる現代の感覚とでは大きなずれがあるとも言え、文春オンラインでその記事が流れた時は、このような告発が起きてくるのも無理はないと感じた。どのように文化を時代に合わせた形で残していくのか、様々なルール作りがされなければ、後継は早晩いなくなると思うが、記事によれば、いまだ現場では「告発した芸妓は悪者」とされているようである。

 「いかに男社会だったかということ痛感しますよ。男女平等になったというのは選挙だけで、それだけだったんじゃないの、って思いますよ。この年までずーっと生きて来て、セクハラ・パワハラ言われてるけど、女性の誰もが受けてきたんじゃないですか?」

 新納さんは母より6歳年上で、団塊の世代ということになるのだろう。リベラル層が多い世代ではあるのだろうが、それでも女性で図書館長という立場で働くなかで出くわしたさまざまな困難があったのだろうと推察する。

 「浅間は腸チフス事件もありましたけど、衛生思想を当時広めたのは名もない保健婦さんたちなんですよ。戦前は産めよ増やせよで夜中もお産に走り回り、戦後は予防注射から始まって色んなことをやった」

 昭和23年、浅間温泉の水道水に腸チフスが発生し、大きな被害を出した。原因は夏場に断水を繰り返していた浅間簡易水道の不備によったという。この病で41才の母を亡くした柳原行恒氏の回想がある。


母は厳格な性格でありましたが、一面に優しさを持ち子育てに一生懸命でした。また、温泉に入ることを楽しみにしており、特に外湯の鍵をもっておりましたので夜遅くの入浴を好み、その帰りには水道水をよく飲んでおりましたが、これが罹患となった原因と思われます。(中略)一つ年下の妹は、家庭での家事、妹、弟の面倒を見る等から中学校三年に進めなくなり、留年することになりました。当時を偲べば、妹が不憫でなりません。

(「罹患体験と私の人生道」『遠い太鼓 第一集』)


 罹患後もそのまま進学できた行恒氏と異なり、一つ下の妹には当然のように家事が任された。腸チフス罹患で治癒した患者は342名、死亡者24名と聞けば、死者数はそれほど多くなかったようにも思われるが、それは数字の話であり、陰には人生の形をさまざまに変えられた人々がおり、女性は特にその影響を強く受けざるを得なかったことを考えさせられる。

 「男ばっかりじゃ面白くないですし、本郷は山崎わごへさんという村会議員も出てますからぜひ調べてください。」

 山崎わごへ、その人の名を私はずいぶん昔から知っていた。それは、中一の時に読んだ、

 上坂冬子『男装の麗人川島芳子伝』の中で、芳子の二学年上の先輩であり、交流のあった人物として浅間温泉「玉の湯」の女将であった彼女の証言が載っていたからだ。戦前は寮母長として玉の湯で世田谷区代沢小の生徒の一部、100名を受け入れた経験について回想を残していたり(『遠い太鼓 第一集』)、「川島芳子と廉子について」で文化大革命で親日派の皇族として窮地に陥っていた廉子さんを松本・浅間の人々で助け、呼び寄せた話などを回想している(『遠い太鼓 第二集』)。まさに浅間の生き字引きのような存在だったことだろう。そして戦後は村会議員である。新納さんは、当時の議事録なども目を通して気になったことがあった。

 「わごへさんの発言の範囲は福祉や子供のことに限られていて、道を作るとか建物建てるとか、政治の肝要なところに発言したものはなかった。子どものことは婦人議員、家庭のことはあの人に発言させろ、それが当時の婦人議員の限界かなと」。

 私はこれについては、それでいいのではないかと感じた。「子どものことは女性議員」。これは今でもみられる傾向だろうとは思うけれど、大切なのは限られた質問の時間の中で、その人にしか見えていない問題を伝えることである。まだまだ育児は女性、という考えが根強い日本で、普段ベビーカーを押さない男性議員に、何よりもまず駅にエレベーターをつけるという発想は生まれないのだ。私自身も子供を産んでベビーカーを押し不便な思いをするようになってから、車いすの人々が普段からどれほど不便を強いられていたか、通常のルートから疎外されているかについて考えるようになった。人は経験しなければ、想像できないのだ。道路のこと建物のことを質問する女性議員がいてもいいが、そういうことは放っておいても男性議員が言いたがることではないか、という気もする。大切なのは、女性議員(や障害を持つ議員)が増えることで、ことなる視点からの変革が社会に起きていくことだろうと思う。

 温泉街の話も一通り通り過ぎたインタビューの後半で、新納さんの語る青年団から生まれたという活動に引き付けられた。

 「戦後は青年団活動がすごい盛んだったので、新しい日本を築こうということで農閑期には劇をやったり、みんなで語りあったり、文芸雑誌を発行したりしていました。活動は夜ですね、学校の家庭科室のようなところに集まって、知識や教養のある人を講師に呼んで、月謝を取ってね。当時の状況を書いたものを見ると、三才山から来る人は提灯下げてきたそうです。縫物や機械の使い方とか実学をやってもおかしくないのに、そうではなく哲学・文学・心理学・経済、そういうすぐに役に立たない、実学でないものをやった。だけどあとで、その青年団長がそのときに教わったことが生きるバックボーンになったっていう感想も書いてますね。戦前は男性の青年団あったんですよ、だけど戦後は合体して男女もみんな一緒でやったの」

 20年代の数年間だったというが、本郷文化学園とよばれたこうした活動の流れはその後公民館活動の方に吸収されていったという。戦後、戦争に協力した青少年団や婦人会が解散させられていった後の経緯を、戦後の本郷地区連合青年団の初代団長を務めた柳澤芳郎氏は次の様に回想している。


私は終戦の年、九月下旬頃、家に帰ることが出来たが、間もなく仲間の青年たちから、自主的な青年団結成について相談を受けた。(中略)私は混乱した戦後をどう生き抜いてゆくか、私共の人生観は、どうあるべきか、私共の進む方向、亦、青年団の在り方等、不安だらけであった。たまたまひょんな縁で、本郷の役場の厚生係をして居られた小岩井源一さんに相談することが出来た。小岩井さんは、
「よし、わかった。勉強しなさい」
と云い、勉強する機会をつくって下さった。それが『本郷文化学園』であった。

(「戦後の青年団について—思いだすがままに—」『遠い太鼓 第二集』)


 小岩井源一、お世話になった小岩井孝さんの父、香蘭荘の主人その人だった。高橋玄一郎という筆名をもつこの詩人が、「本郷文化学園」の誕生に関わっていた。村長になる昭和23年の直前の時期だろう。勤労青年が通った夜学である本郷青年学校の家庭科室で夜間に開かれたこの活動は、青年学校自体が近く廃止になったため、時期としては長くはないが、戦争直後の価値観が逆転してとまどう若者たちの心の受け皿になっていたことがうかがえる。

 「昭和30年代になるとそういうものの必要はなくなってきたというか、松本に神田塾っていうのがあったんですよね、そういうのに吸収されていった」

 昭和23年に「青年学校」が廃止されることが決まると、内部にいた青年たちが22年7月に夜学「深志学院」を発足させた。廃止後には深志学院に100人以上の生徒が集まり、夜学に通ったという。また新納さんの言及した「神田塾」は一足早く21年から塾生を募集し青年団幹部や労組役員らが多く参加したという。どちらの学校も哲学、文学などを学べる場になっていた(『松本市史』第二巻歴史編 Ⅳ現代 第五章)。

 さらに驚いたのは昭和25年にGHQの関東民事部からハブソン女史が派遣され、社会教育の手法として「成人学校」の必要性が説かれたことから始まったという「市成人学校」の存在と、それが現在も存続しており、様々な講座が今なお開かれているということだった。ちなみに2022年10月11日付の市のHPには「聴覚障がい者と学ぶ成人学校「世界の料理・文化いろいろ」」という全5回の催しがアップされていた。72年もこのような知的な交流の場が自治体の元で存在していることはなかなか素晴らしいことではないかと感じた。始まりは上から、GHQである。その意味ではPTAというシステムも同時期作られたものだ。こちらは女性の共働きが増え、母親たちの負担の大きさが常々問題になっているので大いに変革が必要と思われるが、成人学校はもちろん参加は自由でありながら、平成6年まで数えただけでも受講者が7万人を超えたという。非常な厚みをもって人々の知的活動の現場となってきたことが想像できる。GHQの主導という意味では、憲法9条もまたそうであり、改憲派の主張する「押しつけ」論がある。時の流れと共に、変わるときはあっけなく変わるのかもしれない。しかし、成人学校が松本に残って来たように、少なくともそこに人の熱い思いが通っているうちは、おそらく残るものだろう。

 新納さんは昔から黒澤映画が好きだと言う。

 「3・11の時に作家の森まゆみさんがきて、映画やったんですよ。一番重要な映画はこれだっていうので「生き物の記録」っていうのやったんです。黒澤明映画の中で核の危険を訴えた重要な映画だっていうのでね。原爆が落ちてきてピカピカ、苦しい、じゃなくて、人類が核の恐ろしさを知っていく恐怖を脚本にして書いた。第五福竜丸がテーマ。それに触発されて作った映画なんです。でもこの人は考え過ぎだとかね、あれほど恐怖しなくてもいいとかね、最後狂ってしまうから」

 上映は神宮寺だったという。高橋前住職はチェルノブイリの医療支援にも関わっていた。物事の本質を突き詰めて考えた時、フィクションとして描かれた物語をおおげさ、と片付けることはできない。「ただのおばさんです」と謙遜する新納さんの知的で、ときに鋭いまなざしは、浅間や松本にたしかに流れてきただろう、何かを学び、考え続けることへの情熱の一端を伝えてくれているような気がした。