宿神とシャクジ
知り合いに諏訪信仰や守矢のことを話したところ、「守矢? それって資料館があったよね、藤森照信が建てたんじゃなかったっけ。興味ある」と建築学科卒の人らしく言う。車の運転できる人だったので、それならば行ってみようということになった。まだ雪が残る二月。細いおかめ笹の植え込みが印象的な、斜めの屋根の資料館は藤森氏の最初の建築作品だという。建物自体はそんなに大きくはないものの、館内は鹿やウサギなどかつて生贄とされた動物たちの首がずらりと壁に展示されて、前宮の十間廊で4月に行われる「御頭祭」の再現がされている。インパクト抜群だった。建物は自然素材のものを用いている印象だが、コンクリートに藁を混ぜてあったり、人工物と自然物の混ざり具合が面白いのだと、館内の事務所からでてきたおじさんが教えてくれる。
「あなたがたは、どうしてここに?」と聞かれたので、シャクジ信仰に興味あって、こちらの人は建築に興味があるので、というと、ここに来る人はそのどちらかです、との答え。
「そこが、一番重要なミシャグジを祀っているところです」と言われ、大樹の根本に作られた社に近づいていく。諏訪明神タケミナカタが出雲からやってくる以前からこの地にあった信仰を守ってきたのが神長官守矢氏だ。周辺のカヤ、クリとカジノキ二本が「みさく神社境内社叢」として天然記念物に指定されていた。せっかくなので、地図を見ながら500メートルほど南東の前宮を目指すことにする。小川にはところどころつららが美しく凍っていて、ぽきんとおると大きな櫛のように3本まっすぐ氷が平行に伸びていた。山深い道になると、途中大木が目を引いた。幹のところに小さなお社がある。薄暗い木立の中でみる神木は一層霊気を発しているように思われる。あとから峯の湛と呼ばれるイヌザクラであったと知る。森を抜けると、小川が前宮の脇まで続いている。前宮周辺を歩いて気づいたことは、諏訪は完全に木の信仰なのだ、ということだった。あちらこちらに、木と社のセットを目にした。正確にいえば、ミシャグジの神は大樹を通じて小さな社に降りてくるのだ。
この上社前宮で行われる御頭祭は、古くは諏訪の72の神事の内もっとも重んじられ、たものだった。村々から神使(おこう)という少年を出させ、例祭の前に潔斎させ、その後神使が村々を巡る儀式だった、と「国史大辞典」にはそのような説明がある。この神使が、実は鎌倉時代くらいまでは密殺され、狩猟、農耕の豊穣が祈られていたことは前述したとおり古部族研究会編集の諏訪シリーズの『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』などを読んで知ったことである。この習俗も終わり近くには「乞食の子をひろってきて、おこうさまにしたてた」とされ、時代が減るにつれて人柱をたてることへの拒否感が生まれてきていることを物語るのだろう。
冬の間に御室にこもり神使が潔斎をする。その前に、室には「蛇」を模した作りものが入れられている。神使と「蛇」が交互に室に入れられるという。古代日本の人々が信仰した生き物は蛇である。出雲大社に見るような、神社の太いしめ縄は蛇の交尾を表すという解釈もある。
吉野裕子は脱皮する蛇について次のように述べている。
蛇は水神とされ専ら雨乞いの対象として捉えられている。しかし私見によれば、蛇はそのような低次元の神ではなく、くり返しいうように万能の祖先神である。同時に鼠を捕食する蛇は稲作民族の日本人にとって田の神・穀物神でもある。蛇の生態の中でもっとも顕著なものはその脱皮である。脱皮によって蛇は生命を更新し、それをしなければ死ぬほかはない。私どもの祖先は蛇のこの脱皮を謙虚に擬くことを以て至高の宗教行事とした。
(『山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰』)
御室にこもったのちに出てくる神使は稲の魂とされるが、実はこれによって、冬の間に土の中で根が生きのび、再び芽吹くかのような、再生・新生の儀式を行っているのだ。豊穣を祈る儀式と言われるゆえんである。中沢新一はこのおこうさまに稲の霊を付ける儀式について守矢家の守矢満実が中世にものした「諏訪大明神深秘御本事大事」という古文書の「御佐口神付け申す時、箕を用いること、仏神も生まれてこそ、我が身の内になれとそう云う儀なり」という一文を引用して次のようにいう。
ミシャグチ神の霊威を人に付ける(憑ける)ときに、霊威を受ける人は頭に蓑をかぶるという儀礼のおこなわれていたことがわかる。その理由を、著者守矢満実はたとえ神仏であろうとも、出産と同じ胎生学的過程をへて生まれてきてこそ、人の生きた身体の内部に成長をとげることもできるのだ、と書く(『精霊の王』)
直訳すると、「ミシャクジさまをつけるときは蓑を使いなさい。神仏もちゃんと生まれてきてこそ、体に憑いてくれるというものだ」と言う感じだろうか。では、生まれることと蓑との間にはどのような関係があるのか。実は蓑笠は古来、胎児を包む胞衣に喩えられるものであった。胎児が無事に出てきたあとに、胞衣がおりてくることを後産というが、これがなかなかおりてこないとき、栃木や群馬では「わすれましたよ蓑と笠 返しておくれよ君のため」「ふるさとへ、忘れてきたぞ蓑と笠、ひと一人お通し下されたく候」などと下腹をなでて声をかけたという(常光徹『日本俗信辞典』)。さらに邪気を払ったり霊性を付与するものとしても知られ、来訪神が蓑笠を身に着けていることも象徴的だ。そして聖俗は紙一重であり、かつて聖なるものとみなされたものたちが、やがて俗なものとして侮蔑の対象になっていくということは、かつてはやんごとなき場で芸を奉納していた人々が、漂白の芸能民や物乞いなどになって時代を経ていく流れをみても、古い神の面影がやがて妖怪のイメージとなっていくことをみても当てはまる。『世界大百科事典』の「漂泊民」の項目には次のように説明がある。
漂泊・遍歴する人々,旅する人々は,定住状態にある人々とは異なった衣装を身につけた。鹿の皮衣をまとい,鹿杖(かせづえ)をつく浮浪人や芸能民,聖,蓑笠をつけ,あるいは柿色の帷を着る山伏や非人,覆面をする非人や商人,さらに縄文時代以来の衣といわれる編衣(あみぎぬ)を身につけた遊行僧の姿は,みな漂泊民の特徴的な衣装であった。
ここへきて、思い出すのは「蓑笠の精霊」だ。私に親しみを感じてくれているというその精霊は、漂泊・芸能の道祖神そのものだったのである。私もこの音楽の道を歩んで今年で15年だが、10年ほど前から移動し歌う自らに前世があったのなら、やはり移動し続ける人々だっただろうと思うようになった。間違っても定住して農業をする里人ではなかった。中学のころから長らくモンゴルに憧れていたのもおそらくそのためだろう。
しかしミシャクジとは、宿神とも書かれるこの神様の正体は一体なんであったのだろうか。どこまでもつかみどころのない神様ではある。これに対し、中沢氏は『精霊の王』の中で色々な例をあげながら、その実態に迫っている。まず引かれるのは『成通卿口伝日記』(『群書類従』巻三五四)に登場する蹴鞠の精霊だ。その精霊は、蹴鞠を好む成通に向かって、好意的に話しかけてくるのだ。自分たちは懸木のそばで蹴鞠が行われていれば、その蹴鞠に憑いている。蹴鞠が終われば木に戻ること。木のないところで蹴鞠をやっても助けてはやれないこと。そして蹴鞠に没頭することがどうして素晴らしいのかを説くのである。
鞠を好む人は、いったん庭に立ちますと、それからあとはただ鞠のことの他には何も余計なことを思わなくなります。そうなれば自然と心の罪は軽くなっていき、輪廻転生にもよい影響をもたらす縁がうまれることとなるのです。
中沢は、アクロバティックで散楽的要素を持つ蹴鞠は、下級役人や賤民的な芸能者によって行われてきたことにふれ、当時の人々はここに描かれる蹴鞠の精を「中世の芸能・技芸にたずさわるものたちの守護神と言われた、「守宮神」」とわかっただろうと推測する。すなわちそれがミシャクジである。服部幸雄は『宿神論』の中で、魔多羅神ともいわれた宿神(ミシャクジ)が、神社仏閣の正面ではなく後ろ側に広がる空間「後戸」にこそ、荒神としてまつられていたとし、それらを信仰したのは渡来系の秦氏にルーツを持つ猿楽の芸能民たちであったと指摘している。そうして中沢氏は『精霊の王』の巻末に室町の猿楽者であり能作者である、金春禅竹の「明宿集」を掲載し、筆をおくのである。「明宿集」の名は、高校時代に日本文学史のテスト対策で名前を覚えた記憶こそあれど、なんの理解もしていなかった。それは「宿神を明らかにする」テキストだったのである。そして禅竹は宿神は翁である、と断言するのだ。翁といえば、年始にやる地固めのお能にも出てくる、と言うくらいしかわからない。一体何者だろう。禅竹いわく、翁は宇宙誕生の始まりから存在し、不滅の唯一神であり、ある場所では住吉の神、ある場所では諏訪の神、筑波山の巨石としても。つまり色々な神様としてこの世界に顕現しているということなのだった。それがつまりミシャクジなんですよ、というのだから本当に大胆な話である。しかし、この禅竹の語りがあまりに素晴らしかったのである。
存在の真如(本来の面目)のことを「翁」と呼んでいるわけである。生死を超越しているから「翁」である。無限であるから「翁」である。慈悲の心を「翁」と言うのである。このように観念しながら、存在とも非存在とも思える自分の心のうちに、この「翁」を発見するようにつとめなさい。自分の心のうちにこの「翁」と出会うことができたならば、その人は自分のもともと所有していた田地を取り戻すことができた人(本来の自己の心の本性を知った人)と言うことができる。
私はひどく揺さぶられてしまった。600年以上の時を隔て、どれだけ人間が余計な迷いを抱き心を暗くしている存在なのか、そのことを禅竹は教えてくれているのである。自分の魂をみつけ、愛しなさいというメッセージである。西岡恭蔵さんが残した『グローリー・ハレルヤ』という名曲の「愛は生きること 私が私であることを願いながら」「愛は歌うこと あなたがあなたであることを願いながら」と同じである。散楽者であった禅竹が、芸能の神髄をみきわめていた。だから「最近の猿楽芸人」に「毛詩」を引用し、次のように文句も言っている。
大方「歌舞」という言葉をしょっちゅう耳にしていながら、その言葉の真実の意味を理解していないと思ったほうがよい。印度のヴェーダ聖歌、中国の漢詩、我が国の和歌、これらは皆同じ本質を持っている。毛詩の序文にはこうある。「詩と言うものは志である。心のうちに宿っている状態では志であるが、その志が言葉に表現されたとき詩となる。この間の事情を正確に言うことは不可能であって、それを思うと嘆きの心に襲われる。いや嘆くなどということではおさまらない。そこで手には舞を出し、足を大地に踏み出すのだ
表現というものの始まりは、抑えがたい感情とともに生まれてきたものであって、そのことを忘れて、形骸化した何かを芸と思っていてはならないということであろう。600年の時代を超えて、曲がりなりにも曲を生み出すことを生業にしている私も、そのことを感じている。自分の中の「歌の生まれる場所」には、心に宿る「志」があるのだ。それがないときに、どうひねりだそうとしても、ろくな言葉はでてこないのである。一見それらしい言葉を並べることはできるかもしれないが、そこに心はないのである。私はすっかり禅竹に魅せられてしまった。
「翁」は日月星宿が人の心に宿ったものなのである。つまり、あらゆる人がそれを心に宿していながら、そのことを知っていると知らないとの違いがあるのである。返す返すも、人々の心とはそのようなものである。それを知らなければ、真理から遠ざかっていくことをおそれるべきである。これについて、さまざまに工夫し、思考を深めていきなさい。
これは、シュタイナー言うところの、頭で考えることと魂が望むこととは違うという考え方とも通じる話である。自分が本当は何者であり何を求めているのか、そのことに気付けなければ暗い考えに陥り、誤った道ばかり選んでしまうのだ。そして、そのようにして苦しんでいるひとのなんて多いことだろう。私たちは自分自身を正しく見つめるために、誰かの視点と言葉と心のぬくもりが必要なのだ。そのことに気付き始めた人たちはもう少しずつ動き始めている。
私自身は見えないものを見ることができない。けれど、天使を見ていた子供たちや、出雲の歌さんの言葉、あるいは私の演奏中に見えているものをあれこれと教えてくれる沢山の知人たちの見えているものを伝えてもらうことを通して、本当に沢山のことを学ぶ契機をもらっている。そのことに感謝している。この原稿を書いているここ数日のうちにも、「寺尾さんの熊本ライブに一緒に住んでいる友人と二人でいきました、いつでも阿蘇に泊まりに来てください」なんてメッセージが届くのだ。浅間から諏訪に、諏訪から阿蘇に、シャクジから風の神に向かって、つぎなる物語の扉が開きそうな予感が、すでにしている。